「マグロの秘密」辻祥子

 寿司、刺身といえば、すぐマグロを思い浮かべるように、マグロは今や刺身の材料としてなくてはならないものになっています。でもマグロが刺身としてごく普通に食べられるようになったのはいつ頃か、ご存知でしょうか。江戸時代?それとも明治時代?いえいえ、とんでもない。昭和も半ばを過ぎた一九七〇年代、昭和四五年頃に、魚をとったらすぐに、零下六〇度という超低温で凍結・保存する技術が開発されて、初めてきれいな赤い色のマグロの刺身がいろいろなところで販売されるようになったのです。それまでは、身の色がすぐ黒ずんでしまうことから、近海で漁獲された生マグロ以外はなかなか刺身にはならなかったのです。日本の伝統食のような顔をしていますが、まだまだ三〇年くらいの歴史しかないのですね。

 ところで、マグロってどんな魚でしょう。まずマグロの体の形全体を見てみましょう。どこか、飛行機に似ているような気がしませんか。マグロも飛行機も、水や空気の中を早いスピードで動くためにできるだけ抵抗の少ない形になっているのです。体の形は紡錘型、胸ビレが翼、尾ビレが垂直尾翼、尾の付け根には水平尾翼にあたるキールと呼ばれる突起もあります。背中とお腹の後ろの方には小さいヒレがいくつもついていますが、これも体の周りを通過していく水が渦巻きを起こさない効果があります。アメリカの大学でマグロそっくりのロボットを作って、マグロの体のいろいろな部分の役割を調べたことがありますが、まさにすべてが海の中を早いスピードで泳ぐのに理想的な形になっていることがわかっています。
 実は体の外側だけでなく、体の内側にも早いスピードで泳ぐためのいろいろな仕組みがあります。マグロの赤い身は他の魚の肉よりもむしろ動物の肉に近いものです。赤い肉は白っぽい肉よりも強い力を出すことができますので、猛スピードで突進するときには大きな威力を発揮します。でも赤い肉は動くのにたくさんの酸素を必要としますし、すぐ疲れてしまうので長時間運動を続けることはできません。たくさんの酸素を取り込むために、マグロはいつも泳いでいなくてはなりません。いつも猛スピードで泳いでいたら、疲れ果ててしまいますから、普段はゆったりとした速度で泳いでいます。もちろん、寝ているときだって泳いでいるんですよ。

 さらに赤い肉を効率よく動かすために、体の中の温度をまわりの水温より一〇度くらい高く保つ仕組みができています。この方が酵素がうまく働くのです。餌を食べたり猛スピードで泳いだりした後は体温が高くなります。これも動物と同じです。
 さて世界にマグロの仲間は七種類います。日本で普通に目にするのは、クロマグロ、ミナミマグロ、メバチ、キハダ、ビンナガの五種類です。メバチは目が大きい(目鉢)、キハダはヒレが大きく黄色い(黄肌)、ビンナガは胸ビレが長い(鰭長)などの特徴はありますが、だいたい同じような形をしています。しかしながら棲んでいる場所は少しづつ違います。
 マグロの仲間は熱帯域が起源といわれています。そのまま熱帯域にとどまったのがキハダです。体の温度を高くする仕組みはまだあまり発達していませんし、身の色も他のマグロに較べると薄いピンク色をしています。刺身の他、缶詰材料としても使われています。
他のマグロたちは、体を大きくして脂を貯め、体温を高くする仕組みを発達することで、温度の低いところへ適応していきました。深いところに潜って生活することを選んだのがメバチ、北や南のもっと寒いところで生活することを選んだのがクロマグロとミナミマグロです。ミナミマグロはクロマグロとよく似た種類ですが、インド洋の南半球だけに分布する種類です。この三種のいずれも脂ののった赤い身をもつ刺身マグロの一級品です。
 ビンナガは他のマグロとは、違う進化の道を選んだようです。分布域は亜熱帯域全体ですが、体はあまり大きくならず、身はほんのりピンクがかった白っぽい色をしています。シーチキンとして缶詰材料の最高級品となっていましたが、この頃ではトロビンという名で冷凍刺身としても多く出回っています。
 いかがですか。少しはマグロの姿が見えてきましたか。えっ、クロマグロの名前の由来ですか。身がすぐ黒くなる、または体の色が黒いことから来ているといわれています。冷凍技術の未熟だった昔をしのんで、今夜はヅケ丼など、いかがでしょうか。


辻祥子◎独立行政法人 水産総合研究所センター遠洋水産研究所・浮魚資源部 温帯性まぐろ研究室長/東京大学農学博士。スクリプス研究所、IATTC(全米熱帯まぐろ委員会)を経て、遠洋水産研究所に奉職。現在はミナミマグロの資源管理に関わる研究に従事。

イラスト=KITAICH

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