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学生の頃、いや、つい最近まで。正直なところ、今でもそうかもしれない。 鍋に入っている魚についてである。 あんこう鍋、石狩鍋、その鍋料理の名称が明確にその具材を表しているものならともかく、「なんとなくな鍋」に入っている魚に関して、私はその魚の種別について、おざなりにしてきたと思う。 若い頃、安価な居酒屋で注文する鍋に入った魚に「これは、なんていう魚ですか?」と聞くことは、ナンセンスである。聞く方が悪い。880円の鍋である。どんな魚類であっても文句はいえまい。 これが肉ならば、話は違う。そこに入っている肉が何の肉なのか、よほどぼんくらな奴ではない限り、その肉の種別はつくだろう。ところが、魚は種類も多く、味わいも微妙で深い。ざっくりと白身の魚ということはわかるものの、それが、なんという魚なのかは、私でなくとも、おおむねの人々は、その現実を曖昧にしているように思うのだ。 鍋を囲む。すばらしく温かい時間だ。それぞれが箸を伸ばし、薬味の入ったポン酢にひたして、口に入れると、思わず声を洩らす。「おいしい」「おいしいね」。 ところが、誰しもが、その魚の名称について、触れようとしないのである。「このお魚おいしい」とは言っても、「この鱈おいしいわ」などと具体的なことは言わないのである。 ことによっては「鍋を食べると、なんだか無口になるよねぇ」と言い放つ奴もいるが、なぜ無口になるのかといえば、「その魚、なんだと思う?」という質問をされたくないからであり、もう、そのことには触れないでおこう、おいしいんだからいいじゃんという、暗黙の了解なのである。 つまり、何者だかわからなくても、魚はうまいのである。これが肉と魚との一番の違いだと思う。 何の肉だかわからないがうまい。そんな恐ろしい感想はない。書いてるだけで嫌だ。 そして私は今日も、なんの魚かはわからずとも、おいしく鍋をつつくのである。
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illustration=Lily Franky |
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