故郷は石川県だと言うと、お酒がおいしいんでしょ、お魚がおいしいんでしょ、と訊かれることも多い。おいしいよ、と答えたいのはやまやまだけど、私は十八歳のときに東京に出てきてしまっているから、お酒の味は知りようもないし、自分が魚に恵まれた食環境で育っていた自覚なんてまったくなかった。
 東京に出てきて少し経った頃、たまたま小さな回転寿し屋に入った時のことは覚えている。皿の上の握りに手を伸ばして口に運んだ私は、故郷で今まで当たり前のように食べていたお寿司がどれだけレベルの高いものだったのか、痛いほど思い知らされたのだ。鮮度が違う。歯ごたえが違う。そもそも何もかも違う。家族で外食することになった時、両親に「じゃあ今日は回転寿しにでもいくか」と言われて、「うん。それでもいいよ」などと妥協していた無知な自分が恥ずかしくなった。石川県の回転寿しがどれだけおいしいか、東京の人に教えてあげたいと思った。結局二皿だけ食べてすぐにその店を出た私は、路地を歩きながら、馬鹿馬鹿しい一つの心配事に襲われた。「自分の舌が知らない間に魚のうまさを味わい尽くしていて、もう今後ほとんどの魚を受け付けないような味覚障害になっていたらどうしよう」。
 しばらくは魚にさほど興味が持てなかった。お肉のほうに興味があったから。でもおいしいものを食べる機会が増えるにつれ、私のその興味は逆転した。今じゃイベリコ豚より鮮魚のポワレ。私の舌は、心配したような味覚障害にはおかされておらず、魚の美味しさもきちんと味わえた。それでも時たま、子供の頃食べていたお魚が格段においしいというのは、一つの損かもしれないな、と思う。あの頃、普通の魚を食べていれば、このおいしいお魚でもっともっと幸せに浸れていたのに、あぁ、もったいないことしたな、と。
もとやゆきこ◎1979年生まれ。2000年「劇団、本谷有希子」を旗揚げし、主宰として作・演出を手掛ける。06年上演の『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞を受賞。08年上演の『幸せ最高ありがとうマジで!』で第53回岸田國士戯曲賞を受賞。小説では11年に『ぬるい毒』(新潮社)で第33回野間文芸新人賞を受賞。著書に『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』『あの子の考えることは変』『嵐のピクニック』(講談社)『生きてるだけで、愛。』『グ、ア、ム』(新潮社)など多数。
撮影=下林彩子
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