それまでなんの思い入れもなく牡蠣を食っていたのだが、思い入れもないのに牡蠣に当たるとは思ってもいなかった。20年以上も前のことだ。牡蠣に当たる人は、たいてい、牡蠣を特別な食い物だと認定している人じゃあないか。僕が、牡蠣に対する思いは至って普通。あってもなくてもいい食べ物だくらいにしか思ってなかった。若かったからかな。そのときの居酒屋でも、人がたいそうに生牡蠣をありがたがるので、じゃあ、自分も、というていで手を出した。
 それがまんまと当たった。大当たりだ。夜中突然具合が悪くなり、激しく嘔吐。高熱は出るわ、手足はしびれるは、もうほんとに死ぬんじゃないかという苦しみの中、これが牡蠣に当たるということか! と、天啓を受けたような気持ちになったことを覚えている。作家とはさもしいもので、そんな危機的状況でも「これで、牡蠣に当たった人間の心情は描写できる!」と、ひとつ得することを考えたりする。
 それから、何度か、牡蠣を食べる機会があったが、すべて当たり、自分に牡蠣を禁じてから20数年後、結婚した人が、「牡蠣を食べたい」という。それまで断固牡蠣を拒否して来た僕だったが、その日はたまたま、次の日休み。牡蠣の味も忘れた頃だし挑戦してみるかという話になって、六本木のオイスターバーに行き、6つほど生牡蠣を頼んだ。
 目の前にずらりと並んだ生牡蠣は壮観で、正直恐れをなしたが、新妻の「大丈夫、いける!」という根拠のあるのかないのかわからない励ましを頼りに、一気に一口すすり込んだ。
 「う・・・・うまっ!」
 牡蠣ってこれほどうまい食べ物だったのか。咀嚼した後もうま味が血管の中を走り、感動という快楽にたどり着く。これ、麻薬じゃないのか? 20年の封印と苦痛への恐れが牡蠣のポテンシャルを最大限に引き出したのだ。
 幸せだったあ・・・・。
 あんな感動はもうない。それでいい。あの思い入れをもってしてまた当たったら、今度は本当に死んでしまうかもしれない。
 恐ろしい食い物だと思う。
まつおすずき◎1962年、福岡県生まれ。作家、演出家、俳優。1988年に大人計画を旗揚げ。最近の主な作品に映画「ジヌよさらば〜かむろば村へ〜」(監督・脚本・出演)、ドラマ「北斗」「ちかえもん」(出演)、舞台「キャバレー」(演出)などがある。8/10〜、作・演出・出演の舞台「業音」が東京・名古屋・福岡・大阪・松本・パリで上演される。
絵=香神みのり
Copyright (C) 2017 NAKAJIMASUISAN Co., Ltd.