江戸の醤油文化、京の素材文化とよくいいますが、ウナギとハモにも、それは表れていて、面白いなあ、と思います。
 ウナギといえば、蒲焼きでしょう。土用の丑の日かなんかに、うな重を、こう暑いとたまんないねえ、なんて扇子をパタパタさせながら、かっこむように食べる。ゆっくり食べてたんじゃ、汗がよけいに吹き出ます。一般的に暑いときは、脂っこいものには食指が動かなくなるものですが、そこを江戸っ子は、無理して、威勢良く食べるんですね。
 対して京都のハモの代表格は、落としでしょうか。湯引きしただけのものを、梅肉をちょんとのせて食すんですね。骨切りしたところが、白い花のように開いて、ま、見るからに涼しげです。で、それを目で楽しみながら、ゆっくり食すわけですね。つかのま、暑さを忘れようという趣向です。そもそも、私に言わせれば、ハモはかきこみたくなるほど、おいしいもんじゃない。淡泊ですしね。
 けど、ハモっていうのは、生命力が強いんです。ゆえ、小骨があろうと、京都で重宝された。ご存知のように、京都は海から遠く離れている。それを昔の人は「京は遠ても十八里」と、今でいうポジティブ・シンキングをしながら、若狭から担いで、運んだわけです。足の早い鯖なんかは、当然、鮮魚では運べません、浜で塩してから、運んだ。ところが、ハモは、夏の盛り、少量の水でも、若狭から洛中まで生きたまま、担いで運べたというんですね。おそるべし、その生命力。
 確かに、落としは、楚々とした姿ですが、生のハモは、白い花にも似てもにつかぬ、面相。錦市場で、その裏の姿を見たときは、ちょっと腰が引けました。ウナギなんか案外にかわいい面相でしょう。ところがハモはね、口先が尖って、実にいやーな顔ですよ。このハモという語源は、はむ、噛むからきた、という説もあるくらいで、実際、指など、噛みつかれたら、サメみたいに、容易には抜けないらしい。さように、ハモは、表と裏(本性)の顔が違うんです。似ていますか。何に?いやいや。言わぬが花。この二重構造が京文化の奥深さ、ということなんでしょうね。

1957年生まれ。作詞家を経て、現在はエッセイスト。96年再婚。京都に仕事場を移し、文筆業に専念する。99年築七十数年の町家を夫とともに、手仕事で修復、住まう。主な著書に、『東京育ちの京都案内』『東京育ちの京町家暮らし』『極楽のあまり風 京町家暮らしの四季』(すべて文藝春秋)、『生活骨董』(PHPエル新書)などがある。最新刊は『京都がくれた「小さな生活」。』(集英社be文庫)、おいしいもの満載の、本人撮影の写真とエッセイの一冊です。
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