父は鰻が好きだった。
 練馬の桜台で借家住まいしていた昭和30年代初頭のこと。ものごころがついたばかりの頃のことである。
 当時の食卓は、いくら父が勤務医をしていたとはいえ、そうそう豪華なものが並ぶことはなかった。
 魚でいえば、朝はメザシ。夕ごはんの私の好物は鯖の煮つけであった。
 そんななか、鰻の蒲焼が食卓に登ることは滅多になかったが、それでも夏になると食べた。
 「土用の丑の日」の力は絶大である。
 鰻の蒲焼を食べるのは、一種の家族の儀式のようなものであった。
 スキヤキ鍋を囲むのに優るとも劣らない、食卓に対する集中力があった。
 何しろ、父や母の笑顔が違った。
 「ウナギがこのくらいで、ごはんはこのくらい」と、わずかな鰻の切れ端に対してモリモリとお米を食べる父から、お腹を膨らますために、いたずらにウナギを食べてはならないと教わるのだが、そのずるそうな笑顔から、美味しいからといってバクバクと子供にウナギを食べられてはかなわないという、父の危惧を読み取れないほど、子供は鈍感ではなかった。
 あの時の鰻の蒲焼の味が記憶されていないのは、やはり、ウナギとご飯の分量を注意しながら、おそるおそる食べていたからであろうか?
 我が家は島根県の松江の出身で母も実家は出雲大社。鰻のさばき方、焼き方は関西流である。父が医院を継ぐ為、松江に帰ってからも、鰻を食べる時には蒲焼の作り方について、「東の蒸してから焼くのに対し、西は蒸さない」の話を死ぬまで言っていた。
 父は蒸さないのを好んだが、私は断然関東風が好みである。
 幼い時に味わえなかった分、取り戻さなければならないのだ。
第一、西の鰻は小骨が多すぎる…。
 いやいや、これは鱧…ハモの話。
 松江に帰った夏、夕食は鰻の蒲焼だった。
 これが、妙に小骨が多く、身もなんだかアッサリしている。
 父は「鰻の蒲焼だ」と言い張るのだが、母によってウナギではなくハモであることが明かされ、またしても子供を策略に落し入れようとしていた計画がバレた。
 鱧ならば、やはり「梅肉和え」が好みで、蒲焼で食べようとは思わない。



1955年島根県生まれ。80年に状況劇場へ入団。86年「夢みるように眠りたい」で映画デビュー。88年「明日-tomorrow」、94年「毎日が夏休み」などの映画に出演。92年「ずっとあなたが好きだった」をはじめ、「ダブルキッチン」「誰にも言えない」「長男の嫁」(いずれもTBS)などTVドラマにも多数出演。99年には「カラオケ」で監督デビューも果たす。今夏、最新出演映画「天使の牙」が公開される。

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