別れた妻のよいところはほとんど忘れてしまったが、魚の食べ方がきれいだったことは鮮明に覚えている。秋刀魚などの、なんでもない魚を焼いては、じつに美味しそうに食べていた。皿に残された骨は、ストイックな工芸品のように無駄がなく、美しかった。
 私は食べもの全般への興味が薄く、たぶん食事中もあまり幸福そうに見えなかっただろう。食事の好みが合う夫婦は円満だと思う。彼女の新しいパートナーが秋刀魚の好きな人だったらいいのにと、遠くから祈っている。
 元妻と最後に言葉を交わしたのは約二年前だ。当時三歳だった息子と私が「面会」した直後。都下の実家に住む両親が用意していた大量の魚も肉も野菜もお菓子も、ろくに口にしなかった幼い息子のことを心配して私は、「ねえ……この子は、何が好物なの?」と訊いた。離婚調停のあいだ別々に暮らしていたため息子の好物もわからなかった。昼間から酒気を帯びた元妻は数秒間考えてから、「……キムチ」と答えた。三歳児にキムチを食べさせてもいいのか。韓国ならば普通だろうけれども……と思ったけれども、ちょっとでも否定的な言葉を言うと彼女が怒るのがわかっていたので黙っていた。そんなやりとりを最後に、彼女は子供を連れて行方不明になった。せめて、「……秋刀魚」と答えてくれていたなら、香ばしく焼いた秋刀魚のひときれを頬張る息子の笑顔を、いつでも脳裏に浮かべることができただろうに。
 子供の頃に食べて記憶に残っている旨いものは、なぜか魚ばかりだ。缶詰めの鮪の中に一本か二本だけある、コリコリ食べることのできる柔らかくて太い骨が好物だった。焼いた鮭の皮のところも好きだった。金沢にある父方の祖父母がふるまってくれた鮎の塩焼きを、もう一度食べたいとずっと思っていた。
 現在五歳になっている息子にも、そんな美味の記憶があってほしいと祈ってやまない。

ますのこういち◎1968年東京都生まれ。「R&Rニューズメーカー」でライターとしてデビュー。紆余曲折を経て短歌集『てのりくじら』(実業之日本社)を刊行、ロングセラーに。作詞小説、脚本、レビューなど幅広く執筆活動中。最新刊『かなしーおもちゃ』(インフォバーン)。9月3日に『ドラえもん短歌』(小学館)発売予定。インターネットで『かんたん短歌blog』を毎週更新中。「フラウ」「流行通信」「カタロガー」で連載中。
http://masuno.de

かわいかつお◎漫画家。1969年愛知県生まれ。雑誌「ガロ」でデビュー以来、さまざまなメディアで作品を発表。著書に『ブレーメン』『女の生きかたシリーズ』『日本の実話』(以上、青林工藝舎)。また劇作家・松尾スズキ「チーム紅卍」というユニットを結成しており、共著『読んだはしからすぐ腐る!』(実業之日本社)などがある。「テレビブロス」「ダ・ヴィンチ」「流行通信」他で連載中。ほかに俳優、音楽など活動は多岐に渡る。
http://kawaika.exblog.jp
 金紙&銀紙◎歌人・枡野浩一と漫画家・河井克夫によるニセ双子ユニット。発見&命名は松尾スズキ。名前の由来は「紙みたいに痩せてるから」。2003年松尾スズキの「週刊SPA!」連載「松活妄想撮影所」、『肉親の女』でデビュー。その後、wowow上映の短編映画『まぶだちの女』、映画『恋の門』、サンボマスター『月に咲く花のようになるの』PV等に出演。最近は「anan」「TV Bros.」「小説現代」などに寄稿。現在「R&Rニューズメーカー」で『サプリ・ソング』を連載中。松尾スズキ公式サイトや毎日新聞での連載をもとにした単行本を、リトル・モアから刊行予定。http://www.matsuosuzuki.com/kingin
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