魚の顔に興味をもったのは、友人から川で釣った鮎をもらい、塩焼きにしようと思ったときだった。串を打とうとして頭の先を手にもったら、一見小さく見える顎の、下のほうが外れて大きく開いたのだ。そうか、こんなふうにして鮎は獲物を捕らえるのか……。
 それから、私は仕事の出張で海に面した町へ行く機会があると、市場で物色した魚を旅館に持ち帰り、しげしげと顔を眺めながら絵を描くようになった。
 魚の顔は、見れば見るほど面白い。私たちは、アジやサンマを食べるときはもちろん、尾頭つきのタイを前にしたときでさえ、そう長いこと観察したりはしないものだ。ところが、絵を描こうとして1時間も2時間もじーっと見続けていると、意外な細部の造形に気づいたり、刻々と変化する色の多様さに驚いたり、ふだん気づかない魚の魅力がさまざまに見えてくる。
 私はすっかり面白くなって、日本各地の漁港と、南仏やギリシャまで行って、何十種類もの魚介を絵に描いた。市場で買った魚を旅館やレストランに持ち込んで、絵を描く場所を貸してくれとか、魚が動かないように氷で締めてくれとか、筆洗用の水がほしいとか、突然訪ねて厄介なお願いをするのだが、日本でも外国でも、魚の顔を絵に描きたいから、というと、みんな、びっくりしてから、笑い出し、よろこんで協力してくれた。魚の顔に興味をもつ人間に悪い奴はいない、と思われたのだろう。
 描き終わった魚は、そこで料理をしてもらって食べる。だから、どんな魚でも2時間以内に描くことに決めて、料理人を待たせながら大急ぎで描いた。私の絵を描くスピードが上がったのは、魚たちのおかげである。
たまむらとよお◎エッセイスト・画家・農園主・ワイナリーオーナー。1945年10月8日、東京に画家・玉村方久斗の末子として誕生。東京大学仏文科卒業。在学中にパリ留学。通訳、翻訳業をへて、文筆業へ。絵画制作では毎年数回の個展および巡回展を開催。1991年より長野に移住し、ワイン用ブドウ、ハーブ、西洋野菜を栽培する農園ヴィラデストを経営。2004年には「ヴィラデスト ガーデンファーム アンド ワイナリー」をオープンする。著書、画集多数。最新刊は 『食卓は学校である』(集英社新書)。 www.villadest.com
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