そろそろアンコウ鍋がいいねえなどと交される季節となった。冷静に考えてみると、アンコウとはまことに不思議な魚だと思う。ご存知のとおり、ダブダブと平たい巨体の半分を占めようかという大口をそなえ、足のように変化した胸鰭で海底を這い回っては餌となる生き物を待って暮らす生活態度、それを通説に「暗愚」転じて「あんこう」となり、のちにめでたく「鮟鱇」を当てたというのだが。何かといえば、およそ海洋界に生きる他の魚たちは、体の各部を勤勉に用いて結婚相手や餌を探して日々を送っているというのに、お前はなぜに大半を座して待つ生涯に甘んじているのか。おまけに、するどい歯が居並んだ、その大口の上の鼻とおぼしき位置には、背びれの棘の一本が伸び、小魚のように変化した先端の皮弁を口の前でぶん回し、餌かな?と近づいた生き物たちを丸呑みして腹を満たしているという怠けぶりはどういうわけなのか。こんな呈だから「アンコウの餌待ち」といった俗諺は、自分で動かず待って利を妄想する愚者の例えに使われてしまうのであって、実態を知るほどに、体を温めてくれる鍋中の“鮟鱇さま”のイメージとはかけ離れてゆく。
 時に今般、売れない魚売りのあり様が、この魚のイメージと重なると感じたこともおもしろい。“魚離れ”がささやかれて30年がたち、その間、関係者一同が危機感をもって努力してきたはずなのに、わが国の魚消費量は減衰の一途を辿ってきた。最近になっていよいよ危機感も募り、魚価の低迷・燃油の高騰・後継者不足のせいにばかりもしておれず、魚食普及だと躍起となっている感があるのだが、一様に「昔のような魚屋さんが減ったから」と言うのである。はたしてそうなのか。アンコウが目立つヒレを振り回すが如く「旨いよ、安いよ、新鮮だよ」と呼びかけても響かず、「奥さん、煮つけにいいから持ってきなよ」と誘っても下を向いて通り過ぎる。それが売り場の現状だ。つまりもう魚は“知らない”ものになりつつある。外で食べる嗜好品になりつつある。これが本当の怖さなのだと思う。昔の魚屋が復活しても間に合わない時期が訪れつつあるのではないか。
 残念ながら、宣伝だけして待っていれば大口商売がばっくり獲れる時代は終わった。それぞれが五感・全身を駆使して自ら魚を伝えるために動き出すときだ。そうして知らないものを、あらためて“知っている”に変えること、その具体的な売り方の工夫が日本の食を創り出す時代となったのだ。がんばれ、新時代の魚屋たち。あなたたちが島国ニッポンを支えている。
うえだかつひこ◎1964年島根県出雲市生まれ。現在、水産庁情報技術企画官。長崎大学水産学部在学中より、漁船で働きながら日本の漁村を行脚する。瀬戸内海の漁業調整、南氷洋調査捕鯨、太平洋マグロ漁場開発、日本海資源回復プロジェクト等に従事。日本の「魚食力」を再興すべくトークと料理でサカナの魅力を伝える魚の伝道士。魚食復興有志の会「Re-FISH(リ・フィッシュ)」代表。テレビ東京「ソロモン流」、NHK総合テレビ「あさイチ」、BSフジ「Table of Dreams〜夢の食卓〜」ほか出演多数。
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