「おトトだ、おトトだ!」
 幼い頃夕食に魚料理がでるたびに、私はいつも満面の笑みでよろこんだ。1945年東京大空襲の直後に生を受けたが、当時は食糧困難な時代。子どもの健やかな成長のために、母は食卓に可能な限り魚料理をのせるべく、さぞ心を砕いたことだろう。
 私は食べものに関して好き嫌いはほとんどない。ただ親が高齢だったこともあってか、子どもの頃から絶対に“和食風味党”。
 10代からアメリカを往き来し、若い頃も頻繁に海外出張していたが、当時はまだ世界の主だった都市でも日本料理店があまりなく、パリでもローマでもいつも私は「鮭が食べたい。鯵を食べたい」などと騒ぐので、仲間には怪訝な面持ちで「へぇ、あなたは時間をかけて優雅にフランス料理、が似合うのに…」と笑われた。今でこそ西洋料理も懐石風に少量が美しく皿に盛り付けられるようになり、素材を活かした味付けになってきたけれど、当時はあのボリューム料理、コッテリ料理が苦痛だった。
 本来その土地の文化を理解するには「食」から入って行くのが基本だ。ラオスでは孵化しかけた卵料理、タイでは昆虫料理を怖じ気づくことなく笑顔でいただいたし、ザンビアでは蒸し魚を手づかみで味わった。
 旅先で日本料理店を探す習性は変わらないが、今や世界各地の人々が日本料理の修業をし、更に様々な都市で和食を活かしたレストランを営む。思いがけない街で、「スシ」のみならず「鮮魚&ソイソース+土地の味覚」に各国の人々が舌鼓を打つとは、あぁ、ホントに、いい時代になったと思う。
 かくして私は友人が鮭の皮を残すのを見れば、「いただいて良い?」と手を伸ばす。まぁ、もったいない! ここが一番美味しいのにと、懐かしい「おトト」を味わうのだ。
かとうたき◎コーディネーター 1945年東京生まれ。米国報道誌のリサーチャーを経てオードリー・ヘップバーンのCM交渉などで、国際間のコーディネーターとして先駆的役割を果たす。講演、TV、各種委員、著述等、様々なメディアで活動。女性初の国会議員のひとり、母 加藤シヅエの志を語り継ぐことを使命の一つとし、AAR Japan[難民を助ける会]副理事長など、ボランティアにも励む。
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