絵=つる |
大学生のころ、出欠をとる講義になると口の中によだれがたまった。 先生は五十音順に名前を呼ぶ。呼び始めてまもないカ行で、じわーっと出てくる。 カニタニさんという女子学生がいたのである。先生と彼女の「これはカニタニと読んだのでいいのですか?」「はい」という、やりとりを聞いて名前を知り、よだれをためるようになった。蟹谷と書くのである。 先生は「ほう、珍しい名前ですね」と言っていたが、やりとりを聞いた私は「わー、おいしそうな名前」と思い、それからというもの、蟹谷さんと同じ講義では、彼女が呼ばれるとよだれがたまるのだった。 蟹は大好物である。甲羅から身を上手に出すのにテクニックを要するから、子供のころは脚の部分を、せいぜい二本くらいしか食べられない。「大きくなったら、ごはんも他のおかずもなくていいから、蟹だけを丸ごと一杯食べたい」と夢見ていた。 その夢は、蟹谷さんの名前によだれをたらしていた大学生のうちに叶った。 ある日、「産地直送」というアナウンスとともにズワイ蟹を売るトラックが下宿のそばにやってきたのだ。サイズはどれもみな小ぶりだったから、大学生としては大奮発して二杯買った。新聞紙を広げ、小皿にポン酢を用意し、長時間かけて根気よく身を取り出し取り出し、もくもくと蟹だけを食べた。 食事というものは、いろいろな品目がそろっていてこそヘルシーなのである。だから、この日に私がしたような食べ方は、栄養学的にはよろしくないのだとは思う。だが、一度でいいから「蟹を丸ごと独り占め」ということがしてみたかったのである。 大人になったというより、年をとった現在の夢は、「丸ごとでなくてよいから末永く蟹と酒をたのしめますように」になった。だが、古典を読んでいて「〜したらば」などとあると、あいかわらずよだれが出る。 |
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