お寿司屋さんなんかにフラッと入って、湯のみに魚偏の漢字がズラーッと並んでいるのをボンヤリと眺めている時間が好きで、これはなんて読むのだろう、と思案を巡らせて、大抵難しいのは忘れちゃうのだけれど、その場で調べてみては、魚の特徴をうまく捉えているものが多いような気がして、妙に納得したりする。
アジについて原稿を書いてくれと依頼され、近所のお寿司屋さんに行き、大将にアジにまつわるエピソードを聞いてみた。「アジは魚に参と書くから、やはり参月に獲れたものが旨いんです」と返ってきた。なるほど。やはり郷に入っては郷に従え、である。その道のプロらしい意見だった。
小学生の時分、浦安という漁師町に住んでいた。山本周五郎さんの「青べか物語」の舞台になった土地である(本の中では浦安ではなく浦粕)。課外授業では海苔の養殖をやったり、休日は家族で潮干狩りなどに出かけたこともある。ちょうど「グラインダー武蔵」という漫画が流行っていて、釣りブームにもなった。当時、主人公の使っている釣り竿のモデルが発売されて、それを使っていた友人が羨ましかった(それはすぐに壊れた)。東京湾に囲まれた浦安でも海釣りをするには船が必要で、近くの川で釣り糸を垂らしても、掛かるのはせいぜいハゼぐらいで、
ダボだと食えず、たまに大きいのが釣れると家に持ち帰っては母親に天ぷらにしてもらっていた
(ちなみにハゼは魚偏が下にきて「鯊」と書くそうです。「沙魚」、「蝦虎魚」とも)。
一度だけ、おねだりをして、父親に海釣りに連れて行ってもらったことがある。大きいのを狙うなら一本釣り、釣果を上げたいならサビキ釣り。坊主じゃ寂しいからと、サビキ釣りにした。乗合船に揺られながら数時間。海面に糸を垂らして15分も経てば10匹ほどの魚が釣れている、という塩梅だ。そこで掛かったのが、まさに「鯵」であった。釣りをしているという感覚は全然なかったけれど、たちまちクーラーボックスにも入りきらないほどの大漁で、コンビニ袋にも詰め込んで、帰宅しては母親に釣果を自慢した。食べきれないからと、1号棟から12号棟まである団地中の友達の家を回っては海の幸をお裾分け。「ハゼじゃないゾ!アジなんだゾ!大きいのもあるんだゾ!」。
船に揺られている間、何を話したかはもはや記憶に無いけれど、父子のエピソードとしてはとても印象に残る時間だった。そういえば、小津安二郎監督の『父ありき』という映画で、父子が釣りをするシーンがある。「父子の遺伝、所作において発見せり」という名場面だ。僕もいつか子供を授かることができたら、一緒に釣りに行ってみようと思う。どうだろう、子供相手にムキになっている自分の姿がハッキリと浮かぶじゃないか!
追記:仕事の都合で最近「落語」をよく聞いていて、噺の中に魚が結構登場する。「鰻と幇間」なんて演目に出てくる太鼓持ちは、客を魚に例えていたりして面白い。魚って、なんか良いよね、という想いは日々深まるばかりです。