今年はまだ寒い時期から、お寿司屋さんで何度かおいしい鯛にあたった。
 「鯛です」
 盛り台におくとき、ひと言そう言ってくれてもいいような気がするが、最近は、なんとなく、何にも言わないお寿司屋さんが多い気がする。
 「鯛ですか?」と、訊いて「平目ですよ」なんて返事が来た日には恥ずかしさこの上ないので、こちらも黙っている。
 けれど鯛の中でも春子鯛だけは、一応わかるようになった。
 何しろ、桜貝のような優しい色をしている。
 これが酢で少ししめてあって、寿司飯にのってくると、私はとても好ましく感じる。  東京の人形町というところにある古いお寿司屋さんでは、この魚には桃色のおぼろを挟んで供される。そんなだから春だけの寿司ネタかもしれないと思っていたら、どうもそうでもないようだ。
 気になって、春子鯛について調べたら、まだ小さい鯛を総称して言うらしいことがわかった。鯛は、真鯛でも黄鯛でも血鯛でもよし。大体生まれて一年くらいの時期の魚だ。
 そのままあと数年海にいたら立派に成長し、尾頭付きだ、なんていう風に祝いの席にも、のし紙付きで並ぶのかもしれない鯛が、まだ小さなうちに陸にあげられる。ということはあの澄んだような桜色はいかにも初々しい、海に未練を残したような色だったのだな。
 春子は当て字。関東は春、関西以西は夏から秋が旬とのこと。しかし、旬も何も、まだ成長途中なわけで、特別脂がのっているわけでもなく、そこを敢えていただくので特別時期に左右されないとも知った。
 小さくたってさ、鯛なんだよ。
 と、春子鯛は言わないか。
 どんな恨み節も、言わない気がするな。
 職人さんも手間をかけてくれる。どうあれ大切に美味しくいただきたい。
 ところで鯛の尾頭付きという言葉を書いていて思い出したのは、森田芳光監督が映画にされた『武士の家計簿』だ。
 一家の家計再建に乗り出した加賀藩のそろばん奉行が、親族の集いになんとか御膳を用意するが、鯛までは適わない。それで、絵鯛になる。森田監督らしい、ユーモア溢れるシーンだった。
 鯛の尾頭付きがそんなにありがたかった時代があったことを、改めて思い出す機会にもなった。私が目の当たりにしたのも、数えるほど。自分自身の結納の席と、娘のお食い初めで、どちらも鯛には申し訳ないくらい、からからになっていた。
 そういうわけで、私は小さい鯛の方が好きだ。

 

たにむらしほ◎小説家/1962年札幌市生まれ。北海道大学農学部で動物生態学を専攻する。1990年ノンフィクション『結婚しないかもしれない症候群』がベストセラーとなる。2003年長編小説『海猫』で島清恋愛文学賞を受賞。森田芳光監督で映画化。他、『余命』『移植医たち』など多数。 2016年エッセイ集『ききりんご紀行』を刊行、翌年青森県りんご勲章を受賞。最新長編に児童自立支援施設を舞台とした『セバット・ソング』がある。


Illustration=上野るう
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